第04話    「庄内釣の道徳 その二」   平成24年11月26日  

 昭和43年の頃は、庄内竿が盛んに使われていた頃である。グラス竿全盛と云え、まだまだ竹竿を使う人が多かった。鶴岡の釣り人は、一流の釣師となる為には師匠をとる。そんな事がまだまだ必須となっていた時代の最晩年に当たる。師匠を選ぶのは勝手だが、師匠は弟子を選ぶ権利がある。師匠だって一人で自由に釣りたいのだから、出来れば弟子など取りたくはないに違いない。余程これはと云う人物と師匠に評価して貰わないと、そう簡単には弟子にして貰える訳ではない。ここでも持って生まれた氏の才能が発揮されて、見事弟子して貰ったに違いないのだ。一端の釣師としての誕生は、庄内では遅きに失した27歳の年で、師匠の名は当時市内で名釣師と謳われた杉山五郎作氏(鶴岡市七日町)と云う人物であった。
 伝統の庄内の釣りには長く引き継がれた武士道の歴史がある。それ故師匠からは厳しく、釣り方、道具作りから釣りの道徳に至るまでみっちりと教えられる。通称「杉山のだだはん(杉山のお父さんの意で敬意を払った云い方・通常は杉山のダダチャと云う=鶴岡弁)」と呼ばれていた師匠がクロダイを釣り上げた時、近くにいた男が釣り上げた岩場に割り込んで来て釣り始めた。すると師匠は真っ赤な顔で怒った。「去れーっ、おまえ釣りの道徳知ってんのかあ!!」と怒鳴りつけた。するとその男は、その迫力に負けてそそくさと立ち去ったと云う。
 杉山のだだはんは、釣りたいと思った岩場に誰かが先に入っているのが分かるとその釣岩には絶対に入る事はなかった。それが庄内の釣師同士の暗黙のルールである。また、知り合いが先に岩場に入っていて、「こっちゃ来い! 釣れっぞ!(こっちへ来いや! 釣れるから…!)」と誘われても絶対に行く事はなかった。例え知り合いとは云え、他人が集めた岩場で釣り上げた魚は、自分の魚とは云えない。「いいが、村上はん、絶対に行がねもんだぞ! 釣っても決して自慢にはならねっ」他人にも厳しいが、自分にも厳しい人であった。
 そんな厳しい釣師は、最近のプロと呼ばれる人にも中々いない。鶴岡の釣具店などの噂に聞く所に寄れば、庄内にビデオ取りに来る釣りのプロの中には、絶対に釣らしてくれないと来ない等と云う我儘な人(敢えて釣師とは呼ばない)がいると云う。また、せっかく来ても釣果が出ないと、とたんに不機嫌になったプロもいたと云うから、最近のプロの質が問われると云う物だ。必ず釣らねばならないと云うプレッシャーからか、オキアミやコマセの量は通常の釣り人の量とは思えない量を買って行くとも云う。
 杉山のだだはんは、魚は正しいハキ(魚のいるいないを見極め、潮の払い出し)を見定めてその中にコマセを入れてやれば、必ずや釣れるべくして釣れると云う信念を持っていた人である。決して人の邪魔をせず、一心不乱に自分の釣りをする。
 そんな誇り高き杉山のだだはんは、庄内釣りの正統な後継者として昭和63(1988)に亡くなった。村上龍男氏は水族館二階の裏手から見える一際小高い荒磯の釣岩(通称藤吉岩)のてっ辺に佇み、注意深く潮の流れを読む杉山のただはんの姿を時々脳裏をよぎる事があるのだと云う。そんな館長が熱く語る師匠杉山のだだはんとは、自分にとっても小高い釣岩から海をじーっと海の一点を見つめ、ハキの潮筋を見極めている武士の釣師その姿そのものの様に思えた。